増田三兄弟のこと|漆掻きさん(5)
増田三兄弟とは、福井県今立郡岡本村出身の増田家の長男淺吉さん、三男榮松さん、四男竹治郎さんの三名を指します。
淺吉さんは明治4年生まれ、三男の榮松さんは同12年生まれ、そして四男竹治郎さんは同15年生まれです。
榮松さんは17歳の若さで、明治28年に浄法寺村に来ていますから、その8歳年上の兄淺吉さんは同20年代前半には南部地方のどこかに出稼ぎとして来たのではないかと考えられます。
淺吉さんはその後も出稼ぎを続けますが、榮松さんは浄法寺村(現二戸市)へ、
竹治郎さんは上郷村(現田子町)へ住むようになり、そこで漆掻きをしました。
淺吉さんは明治20年代という早い時期から南部地方に入り、南部でのウルシの木の生育や漆掻きの様子が分かっていたことから、弟たちを連れてきたのではないかと勝手に想像します。
明治39年から昭和8年まで現田子町飯豊に出稼ぎしてきたことは間違いないでしょう。
一冊の『金銀控帳』を残しています。その中間部分は紙縒で綴じてあり、その前後には大正8年から昭和9年までの記録があります。
居住した現田子町飯豊での金銭を貸した記録やウルシの木の購入記録です。
その記録から、当時淺吉さんと漆液取引した人数(漆掻きさんの人数かもしれません)は37名よりも多かったと考えられます。
榮松さんについて、昭和29年田中庄一氏は以下のように記しました。
明治28年(略)当時の浄法寺村の人々は異様な眼をもつて氏をみていたが氏は一意専心その業に従事し若干の利益を得、村民に淳々と説明して、その栽培を奨励指導されたので日に日に栽培者はふえ又、採取技術の研究により生産は年々増加し、数年にして家運挽回といふべき現象を呈するにいたつた、かくして漆業は各方面に宣伝され(略)遂に岩手県では氏を講師として県下に漆栽培の普及を依託することになつた(略)現在、二戸漆として名声が高く、市場に独歩することのできているのは、氏のかくれた貢献によるところが多い。
地元浄法寺の漆掻きさんへの技術指導に感謝する声を聞いてきました。
竹治郎さんは上郷村に住むとき、国許から数名の漆掻きさんを連れてきました。
息子の師匠には、淺吉さんところの職人頭である人物を充てました。出稼ぎの淺吉さんと上郷村の竹治郎さんは、強い協力関係にあったことをうかがわせます。
明治以降の田子町でのウルシの木の栽培は竹治郎さんに始まると言われます。養蚕業も福井県から持ち込みました。
将来に向けた確かな目を持った三兄弟のように思いました。
執筆者プロフィール
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昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長
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