越前衆のこと|漆掻きさん(8)
明治41年、農商務省山林局から発行された『地方ニ於ケル漆樹及漆液ニ關スル状況』の中に、県別の出稼人數と入稼人數が示されています。多分明治40年の記録と思われます。
出稼人數をみますと福井1,560人、新潟102人、石川85人と続きます。
入稼人數の多い順に挙げると、山形186人、巌手178人、靑森121人、静岡100人、新潟97人、群馬85人、秋田67人、福島55人となります。
備考欄には入稼人の概要を記しています。
山形は入稼人ハ三越人多ク又秋田縣下ヨリ來タルモノ少ラス、巌手は入稼人ハ重ニ福井縣下ノモノナリ、靑森は入稼人ハ越前越後能登ヨリ來ル、以下の県でも越前地方、福井地方ヨリ
とあり、漆掻きさんの出稼ぎは圧倒的に福井県人であり、明治40年ごろは南部地方よりも山形や新潟が漆液の生産が盛んだったようです。
岩手県北から青森県南にかけて広がる地域を、福井県では南部と呼んでいたようです。
一方、南部地方では福井県から出稼ぎに来ていた漆掻きさんたちを越前衆(えちぜんしゅう)と呼びました。
「衆」というほどですから、一人や二人ではなく大人数の集団で来ていたことが想像されます。
今日では「あそこの家の先代は越前衆だ」などと、個人にも用いる場面があります。ある越前衆の方に、かつて聞いてみたことがあります。
「秋田や津軽ではなく、なぜここ南部に来たのですか。」その返答は「この地方にはよそ者を受け入れる寛容さがあり人がいい所だ。」というものでした。
漆掻きさんとして南部地方にきた越前衆が住みついたところは、岩手県一戸町から始まり、北に向かい二戸市、そして青森県三戸町、さらに北の十和田市と確認できます。
さらに方角を転じると、岩手県九戸村、軽米町、青森県田子町と広がります。
越前から南部まで歩いて約30日間を要したといいます。
明治27年河和田村に日本漆商工會が設立すると、
「同會は、明治35年以来、漆掻職工團躰旅行を開始せり。是れ實業團躰旅行の嚆矢にして」(『今立郡誌』124頁)
出稼ぎ漆掻きさんのための臨時列車を仕立てたといいます。『村誌 ふるさと北中山』には経験者の話が掲載されています。
「うるしかきはまず鯖江の駅に集まりました。(略)
あっちこっちから集まったうるしかきが団体で出かけたもんです。二百人、参百人とかたまって。富山まで汽車、それから伏木の港で船にのって新潟へ、そう一晩かかりました。(略)
新潟に着くとまた汽車に乗って南部へ向かいました。それぞれ行先がちがっているので、あの駅、この駅と何人かずつが下車して行くわけです。南部まで三日三晩の旅でした。」
執筆者プロフィール
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昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長
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