藩財源確保につながる漆樹栽培 <近世の日本1>
藩財源確保につながる漆樹栽培 <近世の日本1>
江戸時代になり政情が安定すると、各藩は自藩の特産物の育成、財源確保、財政の再建などに目を向けるようになります。再度、『現代日本漆工総覧』の記述を見てみます。
領主の産業開発、保護、奨励という施策が加わって各地方における漆器産地の一つの根拠が出来上っていった。(略)各藩の漆樹の栽培奨励は燈火の資源である木蠟の生産とも結びついて盛んになり、塗り物がまた地方庶民階級の需要をも拡げていった。(略)特に徳川中期までの食器類については、塗り物に頼る他なかったから庶民の生活必需産業でもあった。
この記述から、下枠内に示す状況を想定できると思います。
藩による漆樹の栽培奨励 → 木蠟の生産
↘︎ 漆液の生産 → 塗り物産業の形成
漆樹の栽培奨励は多くの藩で実施されました。年貢率を低くして栽培を勧めたり、藩財政確立のために漆液と蠟漆実を専売品として扱ったり、停止木として伐採を禁じたり、街道や並木沿いに植え付けを勧めたり、江戸末期には漆樹相当数植えた者には帯刀・苗字を許したり、などです。幕府も全国に諭達し栽培を勧めているのです。『日本の漆』から藩名だけを抜き出すと、弘前(津軽)藩、盛岡(南部)藩、秋田藩、仙台藩、庄内藩、新庄(最上)藩、山形藩、米沢藩、会津藩、白河藩、黒羽藩、前橋藩、安中藩、相模国の各藩、甲斐の各藩、越後国の各藩、金沢藩、越前国の各藩、名古屋藩、津藩、鳥取藩、広島藩、山口藩、徳島藩、宇和島藩、高知藩、小倉藩、熊本藩、鹿児島藩となりました。江戸幕府を始め、全国多くの藩で漆樹の栽培を奨励する施策を行ったということになります。
ハゼ蠟を生産できない東北の各藩は木蠟生産を重視したため、漆掻き法は養生掻でした。漆実からの木蠟生産は南部地方では昭和初期まで続きました。会津や庄内地方では絵ろうそくの形でかつての蠟づくりの繁栄をうかがうことができます。
江戸時代の漆液生産による塗り物産業の形成と発展は、今日の各地の漆器産業につながるものです。今では地場産業や伝統的工芸品産業などと呼ばれる漆器産業ですが、江戸の頃は各藩の城下町には町のどこかに塗物屋さんがあったのです。大勢の塗師さんが集まって住み、塗師町が形成された所もありました。また、焼き物が飯茶碗や皿など食器として広まる昭和時代前までは、どんな小さな町にも、山村の集落が作られたところにも、1軒、2軒の塗物屋さんがあったようです。塗物食器は日常の必需品であったのです。
執筆者プロフィール
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昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長
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