越前漆掻きさんの大活躍 <近代の日本2>

越前漆掻きさんの大活躍 <近代の日本2>

近代の漆生産に関わり、忘れてならないことは越前人の活動です。

藩政時代は、自藩の需要のため漆液は統制されていましたが、明治となり廃藩置県により各地の漆樹が開放されました。江戸時代後半から越前の漆掻きさんの全国への出稼ぎが確認されますが、廃藩置県により往来が自由になり、福井、新潟、石川、富山県などからの出稼ぎが急増し、漆掻きさんが専業化したようです。福井県からの出稼ぎ漆掻きさんは多い時で4,000人とも言われ、臨時列車を出して出稼ぎ先に向かったこともありました。正に明治期の漆掻きは越前人の独壇場だったのです。越前の地で発明された漆鎌を用いて、日本中を席巻したという状況があったのです。前回の山林局の書籍では越前からの入稼人を多くの県でみることができます。出稼ぎだけでなく出稼ぎ先に住み着く者もあり、そういう人々がその地の漆生産を担った場面があるのです。南部地方では明治10年代から同30年代にかけて、移住してきた漆掻きさんを数多く確認できるのです。

ここで、明治期以降の国産漆生産量をみてみます。

明治10年 750トン 昭和  元年  50トン 昭和 21年 8トン
同  20年 450トン 同   6年  38トン 同  25年 25トン
同  30年 259トン 同  11年  44トン 同  30年 16トン
同  40年 177トン 同  12年  49トン 同  35年 30トン
同  45年 92トン 同  16年  30トン 同  40年  7トン
大正10年  54トン 同  20年  10トン 同  45年  5トン
同  14年 52トン  この表は『現代日本漆工総覧』の数値から作成しました

 

上の表を見ると、漆液生産量の激減は明らかです。明治41年から国庫補助で漆苗木を無償交付した成果は見ることができないのです。

この状況を画するのは、昭和7年の農林省令第15号漆、油桐及櫨増殖奨励規則です。これよりさきには、諸団体等の請願運動があり、また昭和初期の農村恐慌の救済策として、昭和3年ごろより政府は大日本山林会や各府県山林会と連絡して、漆樹増殖のため補助金を交付して漆組合設立と漆樹新植を奨励していたのです。同7年規則の交付により、漆組合の設立は急増し漆樹の植栽は増加しました。同7年から同12年までの6年間に、新植面積5,243町に約六百拾万本が新植され、実行組合も約千の設立を見たのです。実行組合は全国三十数府県の広範囲に亘って設立され、国内広く植栽が行われたのです。大日本山林会は昭和8年から10回の漆液掻取講習会を開き、農山村民に深い関心と期待を与えたといいます。

この実績は将来を明るく展望させるものでしたが、昭和12年に日中戦争が勃発し国内は戦時体制となり、補助金は中断され植栽地は管理が行き届かず、またも増産の成果を見ることはなかったのです。

昭和50年代後半、田子町の山林で同10年ごろ植林した漆樹を見ています。植栽後40年以上経過しているのに、高さはあるものの大人の腕程の太さしかない樹幹でした。補助金目当てで痩せ地に植栽した結果ではないかと思い出します。

昭和戦後以降今日まで、国や県による諸補助事業が実施されても成功したといえるものは少ないようです。志ある人物による民間での漆樹栽培の必要性と大切さを、明治以降の歴史が教えているように思います。

執筆者プロフィール

橋本芳弘
橋本芳弘
昭和30年  青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年  弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~  平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月  青森県新郷村教育委員会教育長

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