漆産地の広がりと固定化 <近世の日本2>
漆産地の広がりと固定化 <近世の日本2>
古代や中世の項でも見た『増訂工芸志料』で、江戸時代の栽培や生産を探すと、以下のものがありました。
○貞享年間、此の際漆を産する諸国は漆を以って貢物と為し、或いは漆永と称し永銭〔永銭一貫文は今金一円に当る〕を以って上らしむ。又漆樹の員数を記載せしむ〔漆及び漆永を上り、又漆樹の員数を記載することは此に始まるに非ず、是より先既にこの制あり、而れども厳ならず、是に至りて始めて厳制あり〕。
○元禄年間、(略)当時漆を産することの多きは大和、甲斐、飛騨、上野、下野、陸奥、出羽、越後、備中、周防、紀伊、肥後、日向等なり。
○寛政年間、(略)当時本邦に於いて多く漆を産出する国は則ち大和、陸奥、出羽、越後、武藏、甲斐等なり。
○慶応三年二千五百廿七年(1867)(略)当時漆を出すことの多きは則ち大和、伊勢、参河、甲斐、常陸、飛騨、信濃、上野、下野、岩代、陸前、羽前、丹後、但馬、因幡、紀伊等なり。
貞享年間は1684~1687年、元禄年間は1688~1704年、寛政年間は1789~1801年となります。漆樹本数の確認が厳しくなったようです。漆産地は全国各地に広まり、固定化されつつあるようにも見えます。
ここで、南部藩の状況を見ていきます。
寛永11年(1634)ごろ、藩主利直が細かな指示・命令を出していました。自分なりに要約すると「漆の傷を深くすると、木は枯れ、枯れなくとも痛んでしまう。漆液は一盃二盃少なくてもいい。漆樹を枯らさないように。」となるでしょうか。これは、藩主から部下への書状の一部にあったものです。その後は、南部藩時代の漆掻取法は養生搔と云って漆の木の生長旺盛なる土用を過ぎた頃に漆の雄木に限って木を枯らさない程度に漆を掻取らせたという状況になるのです。
漆蠟の生産については、正保2年(1645)の文書で当時の蝋燭の生産が確認できるほど、長い歴史があるのです。また、「ウルシの種子は、高級灯火用の木蠟に加工されていたので、ウルシ以上に重要な資源として取り扱われ、養生掻法が行われていた」と記すものがあります。
文政4年(1821)の領内産物の産出が示され、領内25通の中で漆が挙げられるのは大迫通、福岡通、三戸通の3通、蠟が挙げられるのは福岡通の1通です。盛岡から福岡までの現国道4号線沿いには大正時代まで漆並木が続いていたことを、浄法寺町の漆掻きさんから聞いていました。
田子町指定文化財である佐藤家文書の中に「漆植立證文」があります。
漆三百本を、三戸通御代官所、田子村相米村知行所、地尻地頭並びに百姓どもの居屋鋪地内に植立てする旨の申請がなされ、それを許可したところ、植樹が済んだという申し出があったので、願い通りにその木を利用する(漆液が採れる)ようになったならば、税(藩の取り分)は免除する。何事においても不都合なことをしでかしたならば植立ての許可を取り消す、というものでした。
執筆者プロフィール
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昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長
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