植樹も漆液も税であった <古代の日本>
文字として記録のある時代へ行きましょう。
植樹も漆液も税であった <古代の日本>
『増訂工芸志料』の「巻七 漆工」に次の記述があります。
○大宝元年一千三百六十一年(701)文武天皇令を制し、漆部司の職制を定め、正一人、佑一人、令吏一人を置き以って雑の塗漆の事を掌らしめ、又漆部廿人を置きて以って器物を塗らしむ。(略)
天皇又制して、戸毎に課して園地に〔一戸の内、人の多少を論ぜず園地を均しく給せしなり〕漆樹を植えしむ。上戸〔六丁以上を上戸と為し、四丁を中戸と為し、二丁を下戸と為す〕に一百根以上、中戸に七十根以上、下戸に四十根以上と定め、五年にして植え畢えしむ。(略)
天皇又制して漆を産する諸国は、皆調貢に附して之を献ぜしむ。是を調副物という。正丁一人に漆三勺、金漆(略)三勺を輸するを以って定額と為す。
587年には、朝廷に漆工職があることが示されています。朝廷内では年々需要が高まったことから、上のように職制を新たにし、漆液の生産についても適切な対策が講ぜられたと考えられます。各戸毎に漆園を経営させて漆液の増産を期し、漆液を産する国は調貢として献じるようにさせたものです。
以下、植栽や産地にかかわる項目を見ていきます。
○和銅年間、此の際出雲国島根、秋鹿、楯縫、神門の四郡漆を出し以って産物と為す。
○延喜五年一千五百六十五年(905)(略)越前、加賀、越中、越後の四国は漆を産し、(略)正税と交易してこれを輸さしむ。天皇又制して、美濃、上野、越前、能登、越中、越後、丹波、但馬、因幡、備中、備後、筑前、筑後、豊前の十五国は其の産する所の漆及び金漆を以って庸と定めしむ。
『日本漆工の研究』には、次の記述があります。
聖武天皇の天平年間(729-748年)に至り大宝令に準拠して再び漆樹の栽培を奨励された。
平城天皇の大同二年(807年)には三度漆樹の栽培を督促励行された。
『古代の技術』には、『延喜式』に基づいて次のようにあります。
「主計寮式」に中男作物として漆をあげた国は、上野、越前、能登、越中、越後、丹波、丹後、但馬、因幡、備中、備後、筑前、筑後、豊後の一四国におよぶ(略)
上の記述の中で、和銅年間は708~714年であり、『延喜式』は平安初期の禁中の年中行事や制度等を記し927年に撰進されています。中男作物は調の代りに課せられた現物納租税です。『増訂工芸志料』のその後の記述は、朝廷の漆器をはじめとする調度品の記述が多くなるようです。
701年の「文武天皇令を制し」とは大宝律令の制定と考えられます。この施策の開始により国内各地に漆園が開かれ、その後の漆液生産地・漆産地へと展開していくことになるのです。
執筆者プロフィール
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昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長
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