漆掻きさんの人数(5)

大正期の国の調査による人数

大正12年に『漆樹及漆液ニ關スル調査』(農商務省山林局)が発行され、その中に「漆液掻取人夫(明治四十年大正六年)現在數比較」と題する表があります。大正6年分だけを見てみましょう。

稼人数の多い順に10県を示します (単位は人)
類種別地方別 府県内稼 出  稼 入  稼 稼人数(府県内稼ト入稼ノ合計)
石 川 146 31 146
新 潟 94 34 94
巖 手 92 92
秋 田 70 70
茨 城 20 40 60
山 形 47 47
徳 島 40 75 40
靑 森 34 34
福 井 32 134 32
岡 山 32 4 32
774 321 123 897

 

本文の記述に、上表以外の数値を加えてみると次のようになります。

一、縣外ヘ出稼スル漆掻人夫ヲ有スル地方:京都8、兵庫3、新潟、奈良17、石川、岡山4、廣島13、徳島、愛媛1 計十府縣

二、縣内二於テ漆掻人夫ヲ有スル地方(前記各府縣ノ外左ノ如シ):神奈川15、埼玉1、茨城、栃木4、長野2、巖手、靑森、山形、秋田、鳥取19、和歌山30、熊本4、宮崎9 計十三縣

府縣は略し、数字の単位は人です。他県から入稼の漆掻きさんがいる県は、茨城の40人を始め福島25人、山梨20人、栃木15人、岐阜15人、宮城8人,計6県123名となっています。

明治40年から大正6年までの10年間で大きく変容しました。

・他県へ出稼ぎする漆掻きさんは1,883人から321人へ減少しました。

福井県人の1,560人が134人への減少が大きいのです。

・出稼ぎ人が少ないということは入稼ぎ人の減少に直結しています。

1,258人から、123人へと減ってしまいました。

・明治40年の漆掻きさん4,963人が897人まで減りました。5,000人が1,000人を切ったと言うべきでしょうか。

明治10年は10,000人、同40年は4,963人、大正6年は897人とみてきますと、明治10年から30年間で半減し、その後の10年間でさらに5分の1にまで減少したことになります。

大正期の青森県の様子

『大正6年青森県統計書』工業の「漆液」は、次のように記します。

正味・瀨濕・雑液の合計生産量 左の郡別生産量 製造戸数 左の郡別戸数
1,875貫 三戸郡   855貫

弘前市  1,020貫

4戸 三戸郡   2戸

弘前市   2戸

さらに、「工家ノ職業別」の中に「漆掻職」があり、県合計31人(三戸郡30人、中津軽郡1人)とあります。(上表の記述には取扱いの不備があるでしょう)

執筆者プロフィール

橋本芳弘

昭和30年  青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年  弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~  平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月  青森県新郷村教育委員会教育長

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