福井県の漆掻きさんの出稼人数
断片的資料しかないのですが、福井県の出稼ぎ人数を見ていきます。
※『福井県史 通史編4近世二』には以下の3点があります。
・「天保三年には、鯖江藩領東庄境組と庄田組の内三二か村から四八〇人が漆掻きの他国稼ぎに出ており、」
・「安政元年(一八五四)今立郡東庄境村では三六人が漆掻きとして主に関東に出ていた」
・「文久(一八六一~六四)年間には同郡服部谷・水間谷に居住していた七〇〇軒のうち三五八軒が漆掻きの職に従事しており、」
※「明治初年の福井県の産業」では「漆」の中に次の記録があります。「(略)今立町水尾谷・月尾谷・服間谷の村落や鯖江市旧河和田村の農民が、副業として長野県など中部・関東・東北方面へ漆掻きの出稼ぎに行った。今立郡の漆液の産額は慶応年間に4,800貫、漆掻き200人ほどであったが、明治10年ごろには1,100貫、漆掻き130人ほどに減少している。
※『第二十回福井縣勸業年報明治三十六年』の「漆汁」には、製造戸數總計78戸(内訳は今立郡34、丹生郡27、大野郡11、南條郡5、遠敷郡1)、産額總計1,410貫(今立郡742、丹生郡362、大野郡189、南條郡115、遠敷郡2)の記録が残ります。
※『福井縣自治民政資料』(明治45年)には、次のようにあります。「今立郡ノ漆掻従事者ハ一時頗ル盛ニシテ數千人ヲ下ラズ河和田村ノミニテ七八百餘人ニ及ビタル(略)漸次漆掻業者ノ數ヲ減シタリ然レドモ尚今立全郡ヲ通シ従業者五百有餘名アリ(略)」
※『福井縣の農林水産業』(昭和25年発行)に特殊林産の漆の記述があり、漆生産量の表を掲載しています。(漢数字は算用数字に変えて示します)「昭和23年度に於ける採集者は35名で主として南條郡河野村、丹生郡糸生、殿下村、今立郡河和田、下池田村等で採集しその實生産量は260貫である。」
漆生産量 (單位貫、福井縣漆採集組合調査に依る)
年次 | 昭和元年 | 自昭和3年至昭和12年平均 | 昭和15年 | 昭和20年 | 昭和21年 | 昭和22年 | 昭和23年 | 昭和24年 |
生産量 | 220 | 210 | 250 | 48 | 50 | 200 | 260 | 200 |
天保三年は1832年です。江戸時代後期には福井県内(藩領内)には漆掻きさんが多くいた集落があり、そこから他国他県へ出稼ぎに出ていた様子が分かります。江戸時代から明治時代になると福井県内の漆掻きさんの数は減少していきますが、明治になると通行の制約がなくなり交通機関の発達により県外への出稼ぎ(他国稼ぎと呼ぶようです)が増加したことは間違いないでしょう。出稼ぎ先で家庭を持ち住み着いた者や漆樹の多い土地へ移住した者、さらに兄弟が近隣へ移住した者もあり、東北各地で確認することができます。その数値を示す資料は提示できないのですが。
『林業統計要覧』によると、福井県の漆生産は昭和40年までは毎年継続し、その後は途切れながらも同50年代まで続いたのです。
執筆者プロフィール
橋本芳弘
昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長