青森県の漆掻きさんの人数
『明治40年青森県統計書』の中に漆掻きの状況を見ていきます。
工業の中に「漆液」があり、次のようになっています。
正味・瀨濕・雑液の合計生産量 | 左の郡別生産量 | 製造戸数 | 左の郡別戸数 |
9,848貫 | 三戸郡 9,455貫
中津軽郡 29貫 |
81戸 | 三戸郡 79戸
中津軽郡 2戸 |
『県治一覧表』や『統計書』では明治初期から同30年代までは「漆汁」として扱われ、同40年からは「漆液」となっています。明治31年には「一 正味トハ幹掻ニシテ瀨濕トハ枝搔ナリ」とあります。
さらに、工業の工戸口に「漆掻職」があり、三戸郡68人・中津軽郡1人で合計69人となっています。
漆掻きさんの人数(2)明治期の国の調査による人数で示した国の報告では、青森県の掻取人数は77人、入稼人数は121人であり、青森県内では合計198人の漆掻きさんが明治40年の漆掻き作業に従事したととらえることができると思います。一人当りの生産高(採取量)を割り出すと、9,848貫÷198人=49.7…貫となります。とても無理な採取量の数値です。統計書の「戸数」を「人」と読んでみると9,848貫÷81人=121.5…貫となりますし、漆掻職69人では9,848貫÷69人=142.7…貫になってしまいます。
青森県全体の漆生産量の数値が間違いで、郡別を加えると9,484貫であり364貫の誤差があります(多分郡別を加えた数値9,484が正しいと思われますが、その後も生産量は9,848の数値が残ります)。製造戸数「戸」と漆掻職「人」のかかわりは不明です。解決の手がかりは明治40年前後の記録にあるかもしれません。そこで、明治39年4,035貫・58戸・83人、同40年9,848貫・81戸・69人、同41年5,449貫・41戸・72人と並べて見てみます。明治40年の生産量が2倍以上に増加していますが、戸数と人数は増えたとは言えないようです。
三戸郡の三戸町と田子町には明治から大正そして昭和戦前まで、10名弱の仲買人や親方といわれる者が存在した事実があります。地元の人物が福井など他県から漆掻きさんを雇って漆を生産し、仲買人の役割を担った者がありました。また、福井から多くの漆掻きさんを伴って三戸町に来て、漆掻きさんを近隣の集落に派遣して漆掻きをさせた親方と呼ばれる者もいました。このような場合には、仲買人や親方は1人と数えられたが、雇われて他県から来た漆掻きさんは統計の中で人数として数えられていないのではないかと考えます。すると、仲買人や親方へ収納された漆液は生産量として計上されているにもかかわらず、漆掻きさんの数は出てこないのではないかと考えられます。
田子町には、明治30年代から昭和3年まで、毎年30名ほどの漆掻きさんを越前から連れてきたという人物がいました。田子町には「越前衆」という言葉も残り、かつては漆掻きさん用の宿があったといいます。
青森県の漆生産の中心地であった三戸郡には、統計の数字には表れない多くの漆掻きさんの存在があったように思います。
執筆者プロフィール
橋本芳弘
昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長