明治期の国の調査による人数
明治41年には、国内各地方の報告をまとめた『地方ニ於ケル漆樹及漆液ニ關スル状況』(農商務省山林局)が発行され、各地の掻取人数を知ることができます。掻取人数は漆掻きさんの人数であり、全国では3,705名となっています。ここでは、多い順に10県を示しましょう。(単位は人)
類種別地方別 | 掻取人数 | 出稼人数 | 入稼人数 | 備 考 |
福 井 | 1,600 | 1,560 | ― | |
新 瀉 | 354 | 102 | 97 | |
石 川 | 282 | 85 | 43 | 入稼ハ越前地方ヨリ來ル |
徳 島 | 178 | 20 | 36 | 數年前ハ福井縣ヨリ入稼人來リシモ近時ハ愛媛縣下ヨリ來レリ |
栃 木 | 172 | 1 | 9 | 土着ノモノニシテ掻取ニ従事スルモノ十人(内一人ハ出稼)他ハ大抵福井富山縣ヨリ來ル |
山 形 | 100 | ― | 186 | 出稼スルモノナシ入稼人ハ三越人多ク又秋田縣下ヨリ來ルモノ少ラス |
秋 田 | 95 | 7 | 67 | 入稼人ハ新瀉福井地方ヨリ來ル |
茨 城 | 94 | ― | ― | 元締十九人アリ福井縣下ヨリ來ル |
群 馬 | 93 | ― | 85 | 入稼人ハ越前地方ヨリ多ク來ル |
靑 森 | 77 | ― | 121 | 入稼人ハ越前越後能登ヨリ多ク来ル |
計 | 3,705 | 1,883 | 1,258 |
この報告書の巻頭には「本書ハ(略)各地方ヨリ得タル調査報告ヲ蒐集シタルモノニシテ(略) 明治四十一年六月」とあることから、記された内容は前年の明治40年のものであると考えられます。
漆掻きさんの人数は福井の1,600人が圧倒しています。この数は江戸時代からは減少していると考えられますが、国内の漆産地は越前人(福井人)によって開発されてきたことを示すものだととらえることができます。明治40年の時期においても、備考にある「越前地方ヨリ」「三越人多ク」が示すように、越前人(福井人)の漆掻きさんの国内各地での活躍には目を見張るものがあったと想像されます。
出稼人数は他府県へ出稼ぎする漆掻きさんであり、福井の1,560人を筆頭に新瀉102人、石川85人と続き、全国では1,883人にもなっています。その状況について福井県では次のように記しています。「漆搔取人ハ搔夫ヲモ雇入レ各地方ヘ出稼セシムルモノニシテ其地方ハ愛知、三重、静岡、栃木、埼玉、神奈川、山形、靑森、秋田、岐阜、山梨、茨城、群馬、長野、福島、岩手、新瀉、宮城ノ諸縣ニシテ普通ハ六月初旬ニ出立スルモノニシテ十一月末頃歸郷ス」福井県から国内18県にも出稼ぎしているのです。
入稼人数は他府県からその県へ出稼ぎしてきた漆掻きさんで、多い順位に上げると山形186人、巖手178人、靑森121人、静岡100人、新瀉97人と続きます。山形県の入稼人の状況は「縣内ヨリ他府縣ヘ出稼スル者ナク縣下全般ニ渉リ三越ヨリ入稼スル者最モ夥シク置賜方面二在リテハ隣接地福島及會津ヨリ又最上飽海ノ二郡ニ在リテハ秋田県下ヨリ入稼スルモノ尠カラス」と記します。三越とは越前・越中・越後の三地方を指しているのでしょう。やはり越前人(福井人)の活躍がうかがえます。
漆掻きさんの人数では、明治40年の漆掻きさんの人数を2,360人と割り出したのですが、現実にはもっと多くの漆掻きさんの活動があったととらえたいと思います。掻取人数に入稼人数を加えた4,963人と考えます。
執筆者プロフィール
橋本芳弘
昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長