ここで、漆掻きさんの人数を見ていきます。名称は漆搔工、漆掻職人、たんに漆かきと記載されたりします。調査関係では漆掻人夫や漆掻職などと記述されることもあります。
漆掻きさんの人数
漆生産を支えた明治期農民 <近代の日本1>には、「明治前期は31地域が漆産地として認められ、(略)明治十年(1877)頃は生漆の年間生産量は二十万貫(750トン)に及んだ」ことを示しました。同書ではさらに「中でも福井地方の出稼ぎ漆搔工は四千人を超すほど目覚ましいものであり、」としています。明治10年の国内生漆生産量は750トンであり、漆搔きさんは1万人いたと言われます。(750トン=750,000kg)÷(20貫=75kg)=10,000人となるわけです。この状況を、『越前漆器』(杉本伊佐美著 昭和45年発行)では「漆の生産高を二十万貫としたがために、いきおい、一人当りの生産高を二十貫とみて、採取人を一万人とせざるを得なかった。うち約半分の五千人を福井県に、さらにその半数の二千五百人を河和田を含む今立郡に、と半数づつを割当たものだから、どうしてもウソ八百人ぐらいを河和田に割当ぬともってゆくところがなくなる。」と記しています。
『越前漆器』で示した「一人当りの生産高(採取量)を二十貫」とする考えは、ある面においては妥当だと思います。越前の漆掻きさんにより開発された産地では、「二十貫採って一人前」という言い方が残っています。一方、若いころは四十貫も採取できたのに年齢を重ねたら二十貫にも達しなかったり、また容量の少ない小さな採集容器を用いる地域では十貫にも満たなかったりする漆掻きさんが多くいます。
一人当り20貫=75kgとみて漆掻きさんの数を割り出すと、明治20年頃の生漆の年間生産量450トンで6,000人、同30年は259トンで3,453人、同40年は177トンで2,360人、同45年は92トンで1,227人となります。
「一人当りの生産高を二十貫」とする考えを肯定しますが、漆生産量から漆掻きさんの数を推定するときには、自分は割り出された数値に若干加算して漆掻きさんの人数を把握するようにしております。
明治32年衆議院議長に提出された「本邦産漆液保護ノ義ニ付請願書」の参考書に同31年度採収にあたった職工の統計が残ります。(人)
國 名 | 職工数 | 國 名 | 職工数 | 國 名 | 職工数 |
山 城 | 24 | 信 濃 | 120 | 丹波丹後但馬 | 100 |
大 和 | 165 | 上 野 | 60 | 因幡伯耆 | 40 |
摂 津 | 12 | 下 野 | 240 | 石見出雲隠岐 | 25 |
伊 賀 | 12 | 磐 城 | 48 | 備中備後 | 36 |
伊 勢 | 48 | 岩 代 | 72 | 周防長門 | 25 |
三 河 | 180 | 陸 前 | 36 | 紀 伊 | 24 |
遠江駿河 | 72 | 陸 中 | 120 | 阿波讃岐伊豫 | 90 |
伊豆甲斐 | 60 | 陸 奥 | 120 | 土 佐 | 96 |
相 模 | 120 | 羽 前 | 240 | 豊 後 | 12 |
武 藏 | 40 | 羽 後 | 60 | 日向大隅 | 36 |
安房上総下総 | 12 | 越前若狭 | 220 | 薩 摩 | 24 |
常 陸 | 240 | 加賀能登 | 120 | ||
近江美濃飛騨 | 96 | 越中越後佐渡 | 400 | 合 計 | 3,445 |
後に「外ニ壹万貫目 産地未詳分見込」とあり、把握できなかった漆掻きさんがあり、実際は10,000貫÷20貫=500人の増かもしれません。
執筆者プロフィール
橋本芳弘
昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長