2019.10.26 漆掻き道具 その3|漆掻き技術(7) Tweet 漆鎌の製造 前回はカキカンナの名称を用いましたが、福井県の記述に基づき今回は「漆鎌」を使用します。 粟田部漆鎌ともいわれ、「現在形に完成した創始者は初代春田惣兵衛であった」(『郷土史往来』)といいます。 左の写真は漆鎌の金属部分を2方向より撮影したものです(柄となる持ち手部分はカット)。 2点とも下部に見える部分は鎌口であり、上部が目さしです。 前回記述した製造元本家や現製造元に関わりのある人は、平成9年当時福井県今立町粟田部(あわたべ)にいました。 宇野 勤さんを訪ねて 五代目五郎左衛門を名乗り、「まるご(○の中に五)」を掲げて鉄工所を経営していました。父は四代目であり、亡くなる2年前の昭和49年まで漆鎌を作っていたといいます。 自分が知る限りでは、漆鎌の製造は粟田部町で1軒だけです。かつて、青森や岩手から来て旅館に3日でも泊まり、漆鎌の出来上がりを待っていることもあったという話を、父から聞いています。 漆鎌は小林さんが持って行ったし、自分は岩手県へ発送していました。漆鎌の形は誰でも作れますが、樹皮が詰まらないようにすることが大事で、父は自宅裏の欅の樹皮にあてて切れ具合を見て鎌口の研究をしていました。 焼き入れの段階で失敗することが多く、10丁のうち1丁は失敗していたようです。 春田武男さんを訪ねて 祖父は三代目春吉で大正15年没し、父は鍛冶の四代目春吉で昭和63年に没しています。 四代目の頃、兄弟4人が鍛冶を手伝っていたが、昭和初期にはやめたようです。製品への刻印がであったかどうかは分からないといいます。5・6年前に自宅を新築し、鍛冶関係の古いものはすべて処分したため、今は何も残っていません。 岡田政信さんを訪ねて 刃物製作の父二代目紋治郎と一緒に、25・6年前から依頼を受けて作るようになりましたが、何度も失敗を繰り返しました。 使い切ったものを見本としたため、完成した漆鎌を依頼人へ見せると「目さしをもっと長く」などと言われました。 使う人が都合の良いように、使う人から聞いて、切った皮が飛ぶように、注文があれば作ります。 岡田さんは鍛冶製品の産地である武生市の人です。漆鎌は粟田部で発明され、その地区だけで家内工業的に製造されてきた状況を知ることができます。 平成30年夏、奈良県吉野地方で、まだ柄がつかない(未使用である)漆鎌を手にする機会がありました。「はあり」もありました。 執筆者プロフィール 橋本芳弘 昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。 昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業 昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚 平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦) 平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長 Tweet この記事のタイトルとURLをコピーする 漆掻き道具 その2|漆掻き技術(6) 前の記事 漆掻き道具 その4|漆掻き技術(8) 次の記事