浄法寺町の小又米蔵さんは、創意工夫の漆掻きさんであると考えます。
漆掻きの師匠は、增田榮松さんと堀口恵四郎さんだといいます。周りの師匠や親方は職人気質で自分が持つ腕前を教えてはくれないが、二人の師匠はよくしてくれたといいます。
增田さんからは「うんと出る木には、一回採ってからメサシをけろ」と教えられ、長く心がけてきたといいます。堀口さんには今でも困った時にはよく相談し、教えを受けているそうです。
小又さんの漆液採取量の最高は29歳の年であり、600本のウルシノキを持ち、枝漆を含めて45貫だったといいます。この採取量は、小又さんの緻密な努力、そして積極的な工夫に支えられたものと考えられます。
昭和50年代後半、晩秋には枝掻(えだがき)に取り組んでいました。昭和50年代になると浄法寺町周辺では枝掻をする漆掻きさんは誰一人なく、多分小又さんだけだったのではないでしょうか。
品質が劣る、価格も安い、収量も少ない、寒い時期の作業であるなど、枝掻は困難を抱えた漆掻き作業です。それでも、多くの工夫で乗り越えていました。
枝取りの鉈の使い方、流水への枝の浸け方、掻き台の設置法など、多くの場面でいろいろ考えた枝掻の工夫が見られました。
昭和60年代になると、瀬占掻(せしめがき)を始めていました。
越前衆が南部地方に伝えなかったと考えられる瀬占掻であり、近辺には手がかりは皆無の状況です。知り合いから聞いても、皆知らないという声ばかりです。それでも真冬の1月には始めていました。
刃物の改良、タケベラの採用、糸を張る容器の使用など。初めて向き合う場面で、いろいろな工夫が見られました。相談した方は、かつての師匠である堀口さんでした。
枝掻と瀬占掻の技は先人から受け継いだものではなく、小又さんが自分の創意工夫で身に付けたものであり、小又さんの技法といえるものでしょう。それはまた、採算を度外視して取り組まなければならない技法でもあるといえます。
南部地方に越前衆が入って百年あまり(当時)。小又さんのように創意と工夫を繰り返す漆掻きさんが百年間にわたって続いていたならば、越前式殺掻法は新たな採取法に変わっていたかもしれません。漆掻き道具の改善も進んでいたかもしれないのです。浄法寺町に小又米蔵さんという創意に富む漆掻きさんがいたことを誇りに思いました。
執筆者プロフィール
橋本芳弘
昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長