今回からは、実際にお話をうかがいご指導いただいた漆掻きさんについて書いていきます。
初めに取り上げる岩舘正二さんこそ、かつての浄法寺漆の名声を維持し、今日までその名をとどろかせた立役者であろうと考えます。
岩舘さんは、昭和13年・同14年の2年間一戸町楢山で、福井から来ていた塚田与三郎さんから基本を聞いたといいます。師匠の塚田さんが教えることは多くはなく、基本となることは自分から身につけさせて頂いたといいます。
昭和13年は200本ほどのウルシノキから10貫を越える採取量をあげ、これまで最高は同22年のことであり、800本で50貫、一日で1貫を越える日もあったといいます。
昭和22年のあるとき、浄法寺町近辺の漆掻きさんの親方であった大物人物が集まる機会がありました。漆液の高額販売をめざす会社を設立しようとすると、抜ける人物が出て、結局8名で日本漆株式会社を設立しました。
その会社は、盛岡市で漆の精製も行ったといいます。
昭和23年始めは、漆液の売値は高くはないが、終わる頃には高くなりました。早く売った人は、後で売った人の半分にもならない収入だったといいます。
翌24年は、8月のお盆までは値が上がり、お盆を過ぎると半値でも買う業者はなくなります。会社は負債を背負い、昭和25年春には解散することになりました。
設立者の一人に名を連ねていた岩舘さんは、会社と取引のあった漆精製業者等の名簿を入手し、冬の期間はその名簿を頼りに漆樽をもって日本中の業者を回り、浄法寺漆の売り込みを行ったといいます。
昭和50年代、岩舘さんの自宅の両側には大きな木の看板が掲げてありました。
一方は浄法寺漆生産組合でした。全国各地で漆に関するシンポジウムや大会等があると、精力的に駆けつけてステージ上で話す姿がありました。手弁当で出かけていたこともあったようです。浄法寺漆の看板をいつも背負っていたのです。
中央との太いパイプを持っていました。組合設立前後から漆掻き講習会を開催しました。
昭和52年3月の三日間の講師は、ウルシノキ植栽と漆掻きの専門家として名の知られた伊藤清三先生を招いていました。人間国宝や著名人へも浄法寺漆を広め周知していました。
今日の浄法寺漆の名声獲得に大きな功績を残す岩舘正二さんであることは間違いないでしょう。
執筆者プロフィール
橋本芳弘
昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長