前回の塚田傳兵衛さんの田子地方事業地の番頭の一人が、佐々木官重さんです(前回の左々木勘重という表記は、田中氏の間違いでしょう)。
平成20年ごろ、三男の方から伺ったことを記します。父官重は福井県河和田村出身で、塚田傳兵衛さんの番頭として20歳代の若い頃に三戸町に来たようだ。
昭和18年に61・62歳で亡くなっているので、没年と年齢から考えると、明治13年ごろの出生で、同30年代中ごろから同40年ごろに来たようである。
三戸町に来るとすぐ宿を手配し、同時に賄方を求めたと聞いており、独り身で気ままに来たのではなく番頭としての任務を帯びてきたようである。
昭和始めから同15年ごろまでは、毎年34〜35人の漆掻きさんが来ていた。
出身は福井県や山形県から、岩手県は海上や浄法寺の人もあり、田子町の漆掻きさんも多かった。
その漆掻きさんたちを岩手県の海岸方面や山形海岸通や海上へ送り出し、最も多く送ったところは田子町である。父の人生の大部分は田子であったと言っても過言ではないだろう。
父の一年は、3月になると前年送った漆液代金を集金するために出かける。
始めは会津へ、続いて東京、神奈川を回って大阪へ行く。
最後は福井の実家を回って、8月には三戸町に戻ってくるというものであった。
三戸町の市日は8の付く日であり、遠出していても前日には戻り、市日に向けて田子から出てくる漆掻きさんにお金を支払っていた。また10の付く日は田子町の市日であり、その日は田子町に出かけていた。
金銭にかかわる約束はしっかり果たし、トラブルは聞いたことはなかった。
また、酒は一滴も飲むことはなかった。
父が漆商売で用いた商標は〔やまた〕である。三戸町での漆液取引に関わる資料は福井県の実家に送り、まったく残されていない。
田子町には佐々木官重さんの情報がたくさんありました。
官重さんの番頭(漆掻きさんの頭)として明治時代から昭和3年まで福井県から来ていた多田広さん。昭和4年から官重さんが亡くなる同18年まではその子の広吉さんに代わりました。
野端三太郎さんは20歳代の8年間、官重さんのもとで岩手県海上で漆掻きをしましたとおっしゃっていました。
この3人のつながりは、自分のノート記録の積み重ねで分かったものです。
昭和50年代の記録があり平成20年ごろのものもあり、30年間も離れています。
もっと聞いておけばよかったと悔やまれてなりません。
執筆者プロフィール
橋本芳弘
昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長