ウルシノキからその樹液である漆液を採取する作業を漆掻き(うるしかき)といいます。
また、その作業をする人も漆掻きと呼びますが、ここでは漆掻きさんと呼ぶことにします。
縄文遺跡から出土する櫛や弓などに漆が塗られているものや、奈良時代は各地から都に漆が送られたことは、みなさんご存知のことでしょう。
縄文時代も奈良時代にも国内には漆掻きさんがいたということです。
さて、時代は下って江戸時代。日光東照宮の建立にあたり徳川幕府は御用漆搔人として越前の漆掻きさんを雇用しました。上坂忠七郎の先祖が水戸藩の御用漆掻人となります。また、岩田幸七郎の先祖が姫路藩の御用漆掻人であったといいます。
江戸時代も後期になると、越前の土地から全国に出稼ぎして、漆掻きをするようになります。
東北地方を例にすると、今年は福島県北部の地域、翌年は北進して宮城県内に入り、年々北進してやがて岩手県に入って、明治初年頃には現在の岩手県二戸市福岡に達していたようです。
そして、漆掻きさんの中には、毎年出稼ぎするよりそこに居着いてしまう者もいました。この状況は東北地方ばかりではなく、各地で見られたようです。
冬の寒さを我慢すれば、ウルシノキが無尽蔵にある所は天国のような所
という漆掻きさんの言葉を、福井県の資料に見つけたことがあります。
居着いた漆掻きさんは、その土地で漆掻き技法を土地の人々へ広めました。
今では、漆掻き技術は越前式殺掻法と呼ばれるものに統一されたようになっています。
上に記した上坂忠七郎家がある集落は朽飯(くだし)といいます。
その集落を訪ねた折には、この集落の先人は漆掻き技術を身につけて百済(くだら)からやってきた人々ではないかと、心が躍ったことを思い出します。
『岩手県北地方の漆蠟』の中に
「南部に来た越前衆で、勢力を伸ばし、中心的な立場にいたのは塚田伝兵衛が最初である。その次に初代小林忠兵衛の時代があり、次いで増田浅吉、そして上坂謙治へと継がれていった。」
という記述があります。
これをもとに、次回から書いていきます。
執筆者プロフィール
橋本芳弘
昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長