上坂謙治さんは、最後の漆掻き元締めだっただろうと考えます。
明治24年、福井県今立町朽飯に生まれます。明治38年には会津若松市の漆店に入社し、同42年に秋田県仙北町で漆採取に従事します。
そして、明治45年青森県田子町で漆採取集荷業を開設します。
会津の漆店は叔父の所であり、秋田県では父が元締をしていたことから、漆の知識はあり、漆掻きの技術を十分に身に付けたうえで、田子町で開設したものと想像されます。
その結果、息の長い事業となり、国内有数の漆業者(元締)となりました。
昭和23年の上坂さんのもとに漆掻きさんは87名おり、ほかに漆液を納める地元田子町周辺の漆掻きさんが27名で、合計114名もいたと言います。
謙治さんは漆掻きさんを大切にしていました。漆掻きさんたちへ金一封を添えて感謝状を出していました。また、秋の山仕舞いを終えると、一年の苦労をねぎらい大人数で温泉地へ出かけていました。
写真を見ながら当時の楽しさや喜びを口にする多くの漆掻きさんと会ってきました。
耳にしたエピソードを一つ。
使い古した漆樽に百円札を満杯に詰めて福井県の実家に運んでいたそうです。漆掻き作業で汚れた腹当てを身に付け、漆液がこびり付いた漆樽を汽車の中に持ち込み、漆樽に腰かけて眠ったと言います。身なりや漆樽を見て汽車では人が寄り付かなく、眠ったふりをしていると「乞食か」「汚い」という声がよく聞こえたと言います。
昭和30年代後半になると、毎年冬になると福井県に帰るようになったそうです。
そうすると、漆採取集荷業の仕事は子の武信さんへと移ることになります。
昭和40年、先代の死去により店主を継承します。その頃から福井県からの漆掻き出稼ぎ者は見られなくなり、生漆の生産量は激減します。そうすると一般塗料部門を開設し、本社を八戸市へ移転します。
昭和50年代になると、漆掻きさんをめざす若者は田子町には見られず、ウルシノキの原木も不足し、漆掻きを休業する漆掻きさんが出てきます。武信さんは上坂漆行の事業を知り合いに譲り、平成に変わる頃福井県朽飯に帰ることになりました。
田子町ばかりではなく、青森県南から岩手県北にかけての地域に大きな足跡を残した親子でした。
執筆者プロフィール
橋本芳弘
昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長