漆生産を支えた明治期農民 <近代の日本1>

漆生産を支えた明治期農民 <近代の日本1>

明治維新となりました。侍の世から近代国家への夜明けです。国内全てが大混乱の時期です。『現代日本漆工総覧』には、次の記述があります。

「また徳川時代幕府及び各藩の保護政策のもとに育成された漆樹栽培地は、明治維新によって、農民の身分解放、耕作の自由制度等があって、漆器工業の衰微とともに養蚕業の興隆によって、漆樹が伐採され桑園に転換されるもの多く、次第に漆樹栽培面積が減少していった。」

大混乱の時期でも漆は生産されました。その産地を見てみましょう。

「明治前期において漆が生産された地方は、青森県三戸、秋田県山本、山形県南村山、岩手県二戸、福島県会津、茨城県那珂、栃木県那須、群馬県南甘楽、埼玉県秩父、神奈川県足柄、山梨県南巨摩、新潟県岩船、石川県石川、鳳至、富山県礪波、福井県今立、長野県下伊那、愛知県南設楽、岐阜県郡上、吉城、京都府丹波、奈良県吉野、和歌山県那賀、鳥取県智頭、岡山県川上、広島県高田、徳島県美馬、愛媛県宇摩、大分県日田、宮崎県北諸県、鹿児島県鹿児島の広汎な地域に亘り、明治維新により漆関連産業は大きな打撃を受けたが、なお明治十年(1877)頃は生漆の年間生産量は二十万貫(750トン)に及んだ。」

明治前期は31地域が漆産地として認められていたのですが、この生産は、藩政時代強制的に栽培させた漆樹に負うものだったのです。維新の大混乱の時期には大規模な漆樹の栽培は実施されるはずはなく、徐々に生産は減少することになります。そういう中で、農民のあるいは漆掻きさんの実態を適確にとらえた一文を同書は記しています。

「明治時代その地方の農民自らによって漆の採取が行なわれた地方は、漆樹が保護され、旧藩時代に続いて相当ながい期間、漆の生産が保持された。」

明治政府の対応をみてみます。維新以来40余年間、林政上の諸策は国有林経営に傾注され、民有林は顧みられませんでした。この間、貴衆両院議長に請願書が提出されています。明治40年度(1907)になって初めて植樹奨励費として民間特用樹の植栽を奨励する予算が計上されたのです。この政府の助成策により、明治41年(1908)から大正5年(1916)まで、国庫補助で無償交付した漆苗木は21万本余に及んだといいます。

明治41年に農商務省山林局が発行した『地方ニ於ケル漆樹及漆液ニ關スル状況』と題する書籍があります。「本書ハ漆樹及漆液ノ状況ニ關シ各地方ヨリ得タル調査報告ヲ蒐集シタルモノニシテ」とあるように、各道府縣からの報告をまとめたものです。調査内容は、漆樹現在数、栽培者及掻取人数、出稼入稼人の状況、漆液採取の方法、漆樹及漆液の価格、売買の習慣及経路などでした。各道県からの報告分量は皆異なっています。

漆樹現在数の記載なしは、千葉、香川、長崎、沖縄の四県です。そして、一行での回答は、未タ曾テ漆液ノ採取ヲ試ミサルヲ以テ詳細ノ事項ヲ知ルニ由ナシ(北海道)、現在ノ漆樹本數ハ表ノ如シ其他ハナシ(福岡県)、記載スヘキ事項ナシ(佐賀県)、現在ノ漆樹數及栽培者ヲ除キテハ他ノ事項ナシ(鹿児島県)のように、四道県です。この八道県を除いた三十九府県からはその地域の漆液採取の方法他が報告されているのです。

明治後期でも全国各地に漆液採取の方法は残っていたといえますが、漆生産も漆掻き技術も藩政時代に栽培した漆樹に負うものだったこと、そしてその地方の農民によって支えられたものであったことが分かります。

執筆者プロフィール

橋本芳弘

昭和30年  青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年  弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~  平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月  青森県新郷村教育委員会教育長

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