福島県北塩原村 赤城馨さん
祖父弁次郎さんは明治から昭和初期まで、父嘉一さんは大正から昭和の戦後まで、そして三代目の馨さんは昭和戦後から16年間漆掻きさんであった方です。
祖父と父は生涯漆掻きさんで通しており、その父について歩きながら手ほどきを受け、漆掻き技術を身に付けたといいます。
春になるとウルシノキを買い集めます。1本のウルシノキへの値のつけ方は、「この木から土用には一日何匁の漆(液)が採れるか」と予想して、その3日分の漆液採取量に相当する金額を、そのウルシノキの値としたそうです。
6月半ばには目付(めつけ)を始めますが、常に梯子(長さ10尺の竹製のもの)を持ち歩き、太いウルシノキには梯子をかけて樹幹上部まで目付をします。
自分の知る限りでは、会津地方では殺掻き(ころしがき)という言葉は用いなかったそうです。辺掻を15辺行っても20辺重ねても、「裏鎌(裏目掻のこと)を入れなければ養生掻である」と考えているのです。
祖父と父の頃には、新潟県から漆掻きさんを雇い、会津地方ばかりでなく広く県内での漆掻きを行いました。
赤城家には、当時の新潟県の漆掻きさんからの手紙やウルシノキの売買契約書が多数残っています。南部生漆生産集荷組合のこと|漆掻きさん(7)で示した福島縣生漆生産集荷組合からの戦前のはがきもありました。
福島県熱塩加納村 上野幸庫さん
昭和10年ごろ、新潟県猿沢村から2人の漆掻きさんが来て、自宅脇の小屋に寝泊まりして漆掻きを始めたそうです。2年続きます。その2人の様子を父吉次郎さんは見ていたが、見様見真似でついに漆掻き技術を習得し、漆掻きさんになったといいます。
昭和の戦後、父吉次郎さんから漆掻きを教わります。戦後に漆掻きをした者は、近辺では幸庫さんだけです。また、知る限りでは、この地区でウルシノキが大規模に植林されたことはないといいます。その状況で、この地区の人々は漆掻きを「年寄仕事」とみなしていたといいます。
幸庫さんもウルシノキの売買について話してくれました。
戦後すぐの頃、ウルシノキの目通り周囲を測り、一寸の長さを10円として売買交渉をしました。
過去に一度辺掻したウルシノキは、辺掻できる樹皮の面積が狭いため、買値を半分にしていたそうです。辺掻で終えて5年も経過すると、樹勢が回復し樹皮も再生されて、また辺掻ができます。
二腹掻の場合は、前回の辺掻の傷と(上方から見て)90°方向をずらして、2回目の辺掻を行ないます。これが養生掻というものです。
入口の梁材には「第五五號 公認 福島縣生漆生産集荷組合」の表札が打ち付けてありました。
お二人の話から、会津の養生掻を納得の上で理解できました。
執筆者プロフィール
橋本芳弘
昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長