増田定雄さん
学生時代、前年から文献書物で漆掻きの作業を調べていました。そういう折、田子町で紹介された方が増田定雄さんです。
昭和50年4月、上郷の自宅を訪ねさせていただき、初めてお会いした漆掻きさんが増田さんです。その時はこたつに入りながらお話を伺いましたが、それ以来漆掻きの様子などの実技指導をうけることになりました。
父は增田三兄弟で記した竹治郎さんです。次のように話しています。
漆掻きを仕事として始めたのは、16歳の時である。父竹治郎は、自分の息子には自分で教えることができないと言い、福井県から来て職人頭であった爲長栄松氏が師匠であった。朝早く起床するため朝食を食べることができず、2~3ケ月は体をこわした。また、目が見えなくなるほどウルシかぶれがひどく、2~3年は続いた。
昭和17・8年には、冬場の仕事としてウルシ網端木取りをやった。
ウルシノキを山から運んで一尺強の長さに切断し、一辺の長さが2寸ほどの三角柱に割り、角は丸味を持たせて作った。一冬に大型トラック2台分ほどを作って送り出した。
正統な越前式殺掻法を身に付けたと考えられ、昭和33年まで漆掻きさんを続けました。父から引き継いだ実生栽培は戦時中も続けられ、原木があればいつでも漆掻きができると話し、昭和50年代まで続きました。
奥家 弘さん
「“俺一人になっても漆を守って行くぞ”という気概で今まで頑張って来ました」
これは、昭和55年日本漆工協会による漆工界永年勤続者表彰のときの「受賞者の声」のタイトルです。奥家弘さんは40年勤続でした。
祖父政吉さん、父政三郎さんと続く漆掻きさんの三代目です。
15歳で上坂さんの職人(職人の場合は掻子・かきこと呼んでいました)となりました。
初めの年は、ほかの掻子さんが捨てるような生育状況や生育環境の悪いウルシノキをもらうため採取量は少なく仕事の苦労も多かったといいます。
経験を経るにつれ、年々良いウルシノキを数多くもらえるようになり、20貫の漆を採取してはじめて一人前に扱われたそうです。きつい仕事であるが日中は一人だけの作業であり、他の職人よりは苦労は少ないと考えていたといいます。
昭和戦後は、上坂さんを離れ自力で漆掻きを続けました。
浄法寺町と接する田子町であり、漆掻き法は変わりません。樹皮や枝葉と滲出量の関係、土用っ葉やウルシノキの日焼け、切り口に現れるゴマと出口のかかわりなど、真髄ともいうべき細かなところまで教えてくださいました。
漆掻きさんの知恵というものに触れさせていただいたことを思い出します。
執筆者プロフィール
橋本芳弘
昭和30年 青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年 弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~ 平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月 青森県新郷村教育委員会教育長